園生活の中での日々の子どもたちとの関わりを通じて、
「よりよく生きる」ことを考えていきたい。
【幼児教育】をテーマに神明幼稚園の園長、自らが思いを語ります。
3月25日(金)令和3年度修了式。年中・年少の子どもたちはそれぞれのお部屋で担任の先生から、年長・年中の青バッジ・黄バッジを一人ずつ受け取りました。4月から一つ上の学年に進む期待に、みんな顔を輝かせていました。
3月に担任の先生から受け取る青バッジ・黄バッジのことを、私たちは秘かに「魔法の青バッジ」「魔法の黄バッジ」と呼んでいます。この日、胸の黄色いバッジの上に4月からの青バッジをつけてもらって帰る年中の子どもたちに、「あれ、青いバッジだ」「4月から青ぐみさんにになるんだね」と声をかけると、皆ほんとうにうれしそうで誇らしげです。そして4月にそれぞれ色が変わったバッジを制服の胸につけて幼稚園に登園してくる子どもたちは、ぐ~んと成長して階段を一段上ったなと思わせる姿を見せてくれます。この「自分が成長した」「一段ステップを上がった」といううれしさ、喜びを子どもたちには十分に感じてほしいと思いますし、保護者の方も私たち保育者も「子どもたちのうれしく誇らしい気持ち」をしっかり認めて共感したいと思います。
教育の世界では「成長へのあこがれ」という言葉をよく使います。皆さんもこれから、あるいは小学校や中学校の校長先生のお話の中でこの言葉に出会うかもしれません。教育という営みは、学ぶ側に「学びたい」という強い意欲がなければ成り立ちません。学ぶ意欲のきっかけはいろいろあると思いますが、「ああゆうふうになりたい」というあこがれの人に出会うことは大きな動機づけになります。幼稚園では3歳4歳5歳の年齢の差はとても大きいので、年少の子どもたちは年中・年長が砂場で大きな砂山を作ったり、大縄を跳んだり、お当番の活動で園庭の片づけをするのを見て、「すごいなぁ」と感じています。年中の子どもたちは、舞台の上の劇遊びで役のセリフを堂々と言ったり、運動会でみんなでパラバルーンをする年長を、来年は僕たち私たちの番だとワクワクしながら見ています。そういう子どもたちの「成長へのあこがれ」を大事に大事に育てていきたいと思います。 さて、神明幼稚園では4月からいよいよ「おひさまクラブ」(預かり保育)をスタートします。原則として火・木・金の週3回。14時半から16時半の2時間です。12月からプレとして計8回を試行しましたが、3歳・4歳・5歳の毎回違うメンバーで2時間過ごすことが、子どもたちにとってとても良い経験になることを感じてとても楽しみにしています。
異年齢保育の良さは、年少の子どもにとっては年長の子どもの真似をしてやってみたいという気持ちが成長の力になること、年長の子どもにとっては年少の子どもの世話をすることで優しい気持ちを育むと共に自分が成長した存在であることに気づき自信を持つことです。幼稚園が子どもたちの「成長へのあこがれ」に満ち溢れた場所でありたいと思います。
「対話的」と言うと、私たち大人はつい「言葉のやり取り」と受け取ってしまいますが、幼児期の子どもたちは未だ言葉を獲得する過程の途上にあります。そんな彼ら、あるいは彼女たちと対話するためには、私たち大人は言葉以外のメッセージにも注意深くあらねばなりません。
神明幼稚園には毎年たくさんの子どもたちが新しく入園して来ます。新しく入園した子どもたち一人一人と、「この子はどんな子かな?」と考えながら、子どもたちが園で安心して過ごせるように関係を作っていきます。なかには新しい環境に馴染むのに時間がかかるお子さんもいますが、私たちは注意深く時間をかけて距離を縮めて、安心して他者に体を委ねることの心地よさを伝えていきます。3年間で子どもたちは、他者と対話的な関係を築く「コミュニケーション力」を育てていきますが、その基礎となるのは乳児期からの親を含めた他者との身体的接触の経験だからです 。
とは言え、子どもたちにはいろいろな個性があり、身体的接触が大好きな子もいれば、少し臆病な子もいます。また、お母さん、お父さんたちにも、わが子とのふれあいが大好きな方もいれば、その方法に戸惑う方もいます。そこには個人差はありますが、他者と肌を触れ合う心地よさを感じることは、子どもたちにとって生涯を通じたコミュニケーション力の基礎となります。
神明幼稚園の親子ひろばでは、本園への入園を検討している2歳児(あるいは3歳児)の保護者の方に、親子ひろばの終わりの会で親子のふれあい遊びを体験していただいています。お母さん(あるいはお父さん)のお膝の上で、幼稚園の先生と一緒に「落っこちた」をして遊んだり、くすぐりごっこをしたり、子どもたちは大喜びです。
あおぐみ(年長・5歳児)は今日もお庭で元気に遊んでいます。その中で、子どもたちの最近のブームが『どろけい』(注1)です。
ある日、子どもたちが「どろけい」をして遊んでいると、けいさつにタッチをされてもろうやに入らないどろぼうが出てきて、「ずるい!」との声が上がりました。保育者がそっと見守っていると、子どもたち同士で話し合いが始まりました。
「タッチしたらろうやに入らなくちゃだめだよ!」「そうじゃないと楽しくないよ」。さらに「でも水を飲んでるときはタッチするのなしにしよう」「あと転んだときもなしだね!」と次々ルールの確認をしていきました。納得いくまで話し合いをした子どもたちはどろけいを再開。みんなで確認したルールを守って楽しく遊ぶ姿がありました。
以前は、納得いかないことや都合が悪いことがあるとそこで遊びが終わってしまう場面が見られましたが、あおぐみになって今では少しずつ子ども同士で話し合いをする機会が増え、 自分達の考えや思いを伝えあう姿が見られます。
自分の意見を伝え、相手の意見を聞く。聞いてどうしたらいいか考える。小さなことでもみんなで話し合って伝えたり聞いたりする経験を積み重ね、自分たちで解決していく力をつけていってほしいと思います。
幼稚園にこれから入園する保護者の方とお話する機会があると、「うちの子はお友だちとまだうまく遊べません。幼稚園に入ってお友だちとやっていけるか、とても心配です。」というご相談を受けることがよくあります。そんなときには「2歳児がお友だちとまだ上手に関われないのは当たり前です。だってまだ2年しか生きていないのですから(^-^)。これから幼稚園に入って楽しいことをたくさん経験し、同時にお友だちとうまくいかない経験もたくさんして、幼稚園の3年間をかけて他者とのコミュニケーションの方法を学んでいくんですよ。とても気の長い話ですが、いっしょに見守っていきましょう」とお話しさせていただきます。
「対話的」とは「他者とコミュニケートする」ということです。自分の考えや思いがいつもうまく伝わる関係のコミュニケーションは、本当の意味での「対話」ではありません。子どもたちは幼稚園に入って他者と出会い、他者との対話の方法を時間をかけて学んでいくのです。
(注1)どろけい=「逃げるどろぼうと追いかける刑事」という設定の鬼ごっこ。園長も小学校の低学年のころに「どろけい」をやって遊んだ記憶があります。神明幼稚園では、3歳→4歳→5歳の発達段階に応じて、「ルールのある遊び」を活動に取り入れていきます。どろけい、いろおに、てつなぎおに、などは4歳~5歳の子どもたちの発達段階に相応しい「ルールのある遊び」です。
園長は最近、幼稚園の子ども達の生活場面について、こんなマトリクス図を考えてみました。
縦軸には、やりたいか、やりたくないか。
横軸には、やるか、やらないか。
すると図のような4つの領域が出来ました。
やる | やらない | |
---|---|---|
やりたい | 1.やりたいからやる | 3.やりたいけどやらない |
やりたくない | 2.やりたくないけどやる | 4.やりたくないからやらない |
私は、神明幼稚園の子どもたちに幼稚園の生活を通じて、この4つの経験を全部、しっかりとしてほしいと願っています。
これは言うまでもなく、幼児期の子どもたちにとってとても大切な経験です。あれをやってみたい。これをやってみたい。出来るようになりたい。上手になりたい。幼稚園で出会うさまざまなことに興味を持ち、意欲を持って取り組む子になってほしいと思います。自由遊びの時間では、自分からやりたい遊びを見つけて、それを自ら工夫して発展させていく子どもたちに育ってほしいですし、クラスの時間では先生が提供する活動に自ら興味を持って取り組んでくれるように、私たちはいつも言葉かけや環境設定に工夫をしています。
これも①と同様に幼児期の子どもたちにとって大切な経験です。楽しく遊んだ後のお片づけ。面倒くさいかもしれないけれど、次の日も楽しく遊ぶためにはやらなくてはいけないことです。運動会のかけっこで負けるのが嫌だからやりたくない、という場面は年中さんではよく見る光景ですが、やはりがんばって挑戦する子になってほしいなと思います。最初は「やりたくないからやらない」から始まって、でも幼稚園での生活を通じて、やりたくないけど「やらなくちゃいけないから」やる、と「折り合いをつける」ことも子どもたちは学んで成長していきます。
3つ目の「やりたいけどやらない」ことも大切です。自由遊びの時間にせっかく砂場でどろだんごを作り始めたのに、お片づけの時間になってしまったとき。ターザンロープがやりたくて園庭に飛び出していったら先に他のお友だちが遊んでいたとき。幼稚園の生活の中ではそんな場面がしばしばあります。2つ目と3つ目は、自分の感情と状況に不一致が生じる場面ですが、そんなことはこれからの人生でいくらでもあることです。心理学では「情動の抑制」と言いますが、要するに「がまんする」ということも、3歳4歳5歳なりに身につけてほしいと思います。
4つ目は「やりたくないからやらない」こと。これも生きていくうえで時には必要な経験です。大人しくていつも活発な子の意見に従っていた子が、「いやだ!僕はこれがやりたいんだ!」と主張したとしたら、そのことは認められるべきだと私は思います。年中いやだいやだでは困りますが、時には断固拒否するべき場面も長い人生の中では必ずあるからです。 以上の4つの経験をしっかりとしてほしい、と書きましたが、幼稚園の段階ではこの4つがすべて出来なくてもいいと私は思っています。子どもたちのタイプによって、①が苦手な子、②③④が苦手な子。全部ありだと思います。また、小学校、中学校・・・と進んでいく中で、タイプも変化してきます。小さい頃はもじもじして自分の意思を明らかに出来なかった子が、中学高校では生徒会長になりました、なんていうケースは私たちの周りでもしばしばありますよね。
考えてみれば、この4つの経験は人生の続く限り継続するテーマなのかもしれません。私たち大人の日常もこの4つの領域の繰り返しです。そんな温かい目で子どもたちを見守っていきたいですね。
子どもたちが「幼稚園の亀さん」の周りに集まっています。あおぐみ(年長)のお当番さんが、亀にエサをあげたり、亀のおうちをお掃除したりしているところ。それを赤い帽子の年少の子どもたちが、興味深そうにいっしょに見ています。神明幼稚園の2匹の亀さんは、子どもたちの大の人気者なのです。この2匹の亀さんは、子どもたちに人気があるだけでなく、時には私たち保育者を助けて「いい仕事」をしてくれる有能な仲間でもあります。入園したばかりの頃に「お母さあ~ん」と言って泣いていたのが、先生に亀さんのところに連れてこられて「あっ亀さんだ」とうまく気をそらされ、それからニコニコと幼稚園に通えるようになりました(^-^)。なんていう微笑ましい場面を見るのも毎年のことです。亀さんの「泣いている子を泣きやます能力」は侮れないのです(^-^)。
さて、図鑑やテレビで亀さんを見たことのある子、ウサギと亀などのお話を通じて亀さんを知っていいる子はたくさんいるでしょうが、実際に亀さんにふれたことのある子はどれだけいるのでしょうか。メディアを通じて亀さんを「知っている」ことと、実際に自分の目、耳、鼻、五感を通じて亀さんを「経験すること」は本質的に違うことではないか、と私は思います。
幸いなことに神明幼稚園では亀さんを飼っているので、うちの子どもたちはみんな亀さんのことを、経験を通じて知っています。亀さんの甲羅が固いこと。おどろかすと頭や手足を引っ込めてしまうこと。首を長~く伸ばすと随分と伸びること。ゆっくりと歩くこと。でも、ちょっと目を離すと案外早く移動していること。意外と重いこと。でも持てないほど重いわけではないこと。これが「本当に知っている」ということだと思うのです。
先ほどの「亀さんの世話係りの写真」には続きのエピソードがあって、亀さんのお散歩をさせていた子どもたちが私のところに飛んできて、亀さんが逃げちゃった!捕まえて!と言いました。私が「自分で捕まえておうちに帰してあげなさいよ」と言うと、女の子たちが「できな~い!無理無理!」と言いました。私はさらに「あおぐみ(年長)なんだからできるでしょ!」と言って、しばらく経ってみると、さっきの女の子たちが意気揚々と亀さんを手に掲げて、おうちへと連れて帰る後ろ姿が見えました。彼女たちは自分達の手を通じて亀さんの重さ、硬さを知り、その経験はしっかりと彼女田h氏の心に刻まれたと思います。
話は替わりますが、近年、日本の子どもたちの学力の低下が問題となり、学力テストの結果への社会的関心が高まっているようです。その結果、幼稚園や保育園の時期から知的な訓練をさせようとする流れがあることを感じています。
私は、幼児期から知的な教育をすることに決して反対なわけではありませんが、その方法はあくまで「感覚統合(注1)」の考え方に基づいて、五感を通じた経験をしっかりとする機会を設けることが大切だと思っています。神明幼稚園では、この幼児教育の基本を表現した「あそびこむ」という本園のテーマから外れることなく、子どもたちの「人間としての土台」を作っていきます。このコラムを読んだ方も、どこの幼稚園・保育園に通わせようと、まずは五感を通じて知ることこそが、0歳~2歳の乳児期、3歳~5歳の幼児期の教育の要諦であることを忘れずに子どもたちを育ててほしいと願っています。
注1)感覚統合=乳幼児期の知的発達は「感覚の入力⇒運動⇒感覚の統合⇒成果物」というプロセスを繰り返すことである、と言う考え方。乳幼児期の教育の基本的な理論。
神明幼稚園が常に心がけていることの一つが、「年齢と発達段階に相応しい活動をする」と言うことです。
「早期教育」とか「英才教育」と言って、子どもたちの成長を先取りして、早く早くと急き立てるようなことはしたくないし、意味がないと考えています。「立てば這え、這えば歩めの 親心」とは言いますが、あまり先を急ぐのは慎みたいものです。 かと言って反対に、子どもたちの成長に気づかず、何時までも幼い赤ちゃんに対するように接するのもいかがなものでしょう。せっかくの子どもたちの自立を妨げてしまいます。現代の子育ての大きな問題は、過保護」「過干渉」「過管理」だという話を聞いたことがありますが、思い当たる節のある方も多いのではないでしょうか。
神明幼稚園では、年少(3歳児)年中(4歳児)年長(5歳児)の発達課題を、それぞれ次のように考えています。
まず、年少(3歳児)で大切な課題は、なんと言っても「身辺自立」です。自分で自分の着替えができる。靴を自分で履き替える。トイレに一人で行く。自分でご飯をこぼさずに食べる。毎日の生活の中にまさにこの時期に獲得すべき身辺自立の課題がたくさんあります。ご両親は、ぜひ「もう赤ちゃんではない」ということを認識して、日々の生活の中で少しずつ自分で自分のことが出来るように心がけて励まして欲しいと思います。幼稚園の毎日の生活の中でも、帽子や園服、かばんなどを毎朝きまった自分の場所に自分でしまうこと。お弁当を自分でかばんから出して支度をして、残さずにこぼさずに自分で食べること。お片づけの時間になったら自分が遊んでいたおもちゃなどを自分で片づけること。などの小さな課題を少しずつ確実に出来るようになるよう言葉かけをして励ましています。一方で、3歳児の段階では、お友だちとの関係を上手に処理していくことは難しい課題です。この時期の子どもたちはまだまだ「自己中心的」で、相手の立場になって考えることが出来ないのです。幼稚園に入って最初の保護者面談で、「まだうまくお友達と遊べません」という相談をよく受けますが、「それはこの時期には当たり前のことですからまだ心配いりませんよ」とお答えします。
次に、年中(4歳児)になると、人間関係の理解が進んでくることを感じます。お友だちと遊びたい!という欲求が強くなってきますが、まだ相手の立場になって考えることが上手でないので、友人関係のトラブル(つまりケンカやイザコザ)が増えて、親が気をもむことが多くなるのもこの時期です。お友だちとの関係が豊かになるのに伴って、子どもたちの言葉もまた豊かになってきます。「あのねの時代」という言い方で表現する人もいますが、「あのね」「あのね」といろんなことを言葉で伝えようとするようすが見られます。「大きな赤ちゃん」が「小さな子ども」へと、劇的に変化していく時期なので、発達の個人差も目につくようになり、親にとっては周囲の子と比べて「差」が気になることもあるようです。他の子と比べるのではなく、その子の育ちと変化をしっかりと見守っていきたいものです。
年長(5歳児)になると、子どもたちはずいぶんとたくましくなり、「すっかり1人前の人格」を持つようになります。それぞれの個性が発揮されるようになり、またお友だちの個性を認めることも出来るようになります。幼稚園の生活の中では、ケンカをしても子どもたちの中に仲裁者が現れ、彼らなりにうまく対処する姿が見られるようになります。すべての場面で保育者が関わってしまうのではなく、子どもたちどうしのトラブルは子どもたちの中で解決していくように、保育者は見守ることを心がけています。おうちの中でも、5歳児なりの役割を与えて、ときには幼いなりに「1人前」の扱いをすることもたいせつだと思います。子どもたちの個性は一様ではなく、様々な個性が発揮されるようになるので、保育者の言葉かけも工夫が必要です。自己主張が強い子には、時には自分の気持ちを抑えて我慢をすることを経験して欲しいと思いますし、いつも周囲のことを考えてしまう子には、時には自分の気持ちを貫いてごらんと励ますこともたいせつです。
3歳児、4歳児、5歳児、それぞれの発達の特徴を急ぎ足で紹介しましたが、間もなく行われる運動会では、それぞれの発達段階という視点から子どもたちの様子を見てみると面白いですよ。それから運動会の前にいつも申し上げていることですが、ビデオカメラの小さなファインダーからわが子だけを見つめていると、見落としてしまうことがたくさんある気がします。時にはビデオカメラのスイッチを切って、みなさんの二つの目で、いろんな子どもたちのいろんな様子を見て欲しいと思います。その中であらためて見えてくる「わが子の個性」や「わが子の成長」が、運動会のいちばんの見所かも知れません。
あそびこむ」とは豊かに遊ぶこと。子どもたちの遊びと生活の質にこだわりたい
そんな願いを、この「あそびこむ」という言葉にこめて神明幼稚園のテーマにして、もう10年以上になります。私たちの願いを一言で表す、とてもいい言葉だととても気に入っています。その一方で「あそびこむ」という言葉から、「自由保育」を連想したり、「どろんこ保育」「わんぱく保育」のようなイメージを持つ方もいるようですが、「あそびこむ」=「自由保育」ではありませんし、「あそびこむ」=「どろんこ保育」「わんぱく保育」という意味でもありません。そのあたりの微妙なニュアンス?をこの機会にお話したいと思います。
「楽隊あそび」を例にあげてお話しましょう。神明幼稚園の運動会では、あおぐみの「楽隊パレード」は、きいぐみ・あかぐみもダンスや応援で参加して、花形的な存在ですね。皆さんも楽しみにしていることと思います。この「楽隊パレード」の活動は、もちろん上手に演奏することを目標に子どもたちは一生懸命に練習するのですが、上手に演奏することだけが目的になってしまうと「あそびこむ」ではなくなってしまいます。
そこで、神明幼稚園の「楽隊あそび」の活動は、こんな風に進めます。9月になるとあおぐみは、まずいろいろな楽器に触れる活動をします。大太鼓。小太鼓。シンバル。タンバリン。ピアニカ。触ってみて、音を出してみて、楽器遊びをしてみたいな、という興味と意欲をそれぞれにかきたてます。そして今度は、お友だちの前で楽器演奏の発表をします。みんなの前で演奏することは、どの子にとっても緊張する体験です。
こうしたステップを経て、いよいよパート決め。運動会当日に演奏する楽器を決めます。このパート決めも、子どもたちにとって大切な経験です。自分がやりたいと思った楽器に大勢の希望者がいたらどうしよう。逆に、希望者が少ない楽器はどうしよう。子どもたちなりに、どうしたらいいか一生懸命に考えます。全体のために譲り合うことを学ぶことも大切です。 自分のやりたいという気持ちをしっかり伝えて貫く経験も大事です。正解はないのかもしれません。担任は、子どもたちの様子を見守りながら、必要な言葉かけをします。
そして、パートが決まると、運動会に向けて練習が始まります。「大太鼓が得意な子」が大太鼓をするわけではなく、「大太鼓をやってみたい子」が大太鼓をするわけですから、初めはうまくいかなかったりもしますが、励まして練習をします。「練習をしてだんだんと出来るようになっていく」という経験は、とても楽しいことだし、その喜びを子どもたちにしっかりと感じてほしいと思います。運動会の当日、子どもたちの表情が達成感で輝いていたら、それが「あそびこむ楽隊パレード」です。
よく「子どもの仕事は遊ぶことだ」と言いますが、全くその通りだと思います。幼稚園で子どもたちがすべきことは「よく遊ぶこと」です。「よく遊ぶこと」を通じて、幼児期に学ぶべき様々なことをしっかりと経験すること。それこそが「あそびこむ」だと考えています。
朝「先生おはようございます」と言って幼稚園に来てから、「先生さようなら、皆さんさようなら」と言って幼稚園から帰るまで。朝のお支度も、自由遊びも、お片づけも、クラスの活動も。幼稚園の生活のすべてが「あそびこむ」です。やってみたいという気持ち。できたという喜び。子どもたちの「意欲」と「達成感」を大事にすることこそが、「あそびこむ園生活」だと考えています。
保育の場で私たちは、「いざこざ」ということばをよく使います。一般には、「いざこざ」ということばは、悪い意味で使うことが多いと思いますが、面白いことに保育の場ではそうではありません。 子どもたちが成長し、友だちとの関係が豊かになる中で、人間関係のトラブルが生じてくるのは当然であり、それは成長の過程のひとつ、と捉えるからです。
幼稚園の先生たちは、学校で保育学などの課程を学び、幼稚園教諭の教員免許を取得するわけですが、その授業の中でも「いざこざ」ということばはよく出てきます。「3歳児のいざこざについての考察」なんていう題名の論文を読んで、話し合ったりするんですよ。というわけで、私たち幼稚園の先生たちは、「いざこざ」ということばを、けっして悪いことだとは思っていないどころか、むしろよい意味でとらえている。それは、幼稚園で生じる大小さまざまな「子どもたちのいざこざ」を、成長の過程で当然に生じる当たり前のこと、ととらえているからです、ということをを先ず初めに強調しておきたいと思います。
さて、そういうわけで、幼稚園では毎日、子どもたちどうしの大小さまざまな「いざこざ」があります。あかぐみの入園当初の「いざこざ」は単純で、ある意味かわいらしいものです。おもちゃを取った、取られた。思わず手が出て、ぶった、ぶたれた。それに対して、「順番こに使おうね。」「お口でちゃんと言ってごらん」「いきなりぶったら痛いよ」という具合に、ことばをかけていくことになります。もちろん、怪我につながるような行為は厳しく注意し、制止しますが、こうした「いざこざ」を通じて子どもたちは、集団生活の中では必ずしも自分の思い通りに行かないこと、自分だけではなく相手にも気持ちや立場があることを、毎日の園生活の中で学んでいきます。
これが、あか⇒きい⇒あお、と進み子どもたちが成長するにつれて、生じる「いざこざ」も、だんだんと複雑になってきます。例えば、みんなで遊んでいる中で、Aがルール違反をする。それを見たBが、強い口調で注意する。あるいは手が出る。その行為に対してAが怒る。こうなると、A、B、それぞれに言い分が生じてきます。単純に、ルール違反をしたAが悪い。ぶったBが悪い。とは言えません。担任の先生が、それぞれの言い分を聞いたうえで、自分だけではなく相手にも言い分があることに気づかせるよう、援助していくことになります。
さらに、きい⇒あおと進む中で、そうした援助をする担任の役割にも変化が生じてきます。あおぐみでは、子どもたちは私たちが思う以上に成長していますから、上記のような場面でも、子どもたちの中に仲介者が現れて、「Aが最初にズルしたのがいけないよ」「でも、Bがもっと優しく言えばよかったんだよ」などというクラスの中でのやり取りが生じてきます。こうなれば、担任としては解決を子どもたちにゆだねて、ほほえましく見守っていく、というような選択も生じてきます。
さて、こうした「いざこざ」に保護者の方は、どう対応したらよいのでしょうか。昔から「子どものけんかに親が出るな」と言うように、基本的には「温かく見守ってほしい」と思います。子どもたちが自分で問題を解決していく力を育んでほしいからです。ただし、もちろん心配なことがあれば、遠慮なく担任に相談してほしいと思います。でも担任の先生に相談するのは勇気がいるし…。そんなことはありませんよ。神明幼稚園は送り迎えの幼稚園ですから、担任と保護者の方が毎日顔をあわせています。この状況で言いにくかったら、小学校に行ったらどうするんですか!(笑)それに、皆さんいろんなことを幼稚園に言ってきますから、私たちにとって、そうした保護者の不安に耳を傾けることは当たり前の仕事です。むしろ、お母さんはこのことを心配してるんだ、と言うことが分かり、幼稚園にとって大事な情報です。また、園生活で生じる「日常のいざこざ」については、園からも必要に応じてお伝えしているつもりです。
この言葉は、実は葛飾区のまどか幼稚園のキャッチフレーズです。園長の町山先生には、いろいろいとご教示いただいていますが、この言葉も示唆に富んでいますね。神明幼稚園の「あそびこむ」園生活。子どもたちが「楽しい」と感じて、毎日の生活や活動に取り組んでほしいと思います。その「あそびこむ」園生活の中には、大小の「いざこざ」も含まれています。それらを見守り、子どもたちがうまく解決していくことを援助していきたいと思います。
節分・豆まきが終わると、おひなまつり会の劇遊びの活動が始まります。今、職員室では先生たちが、どんなふうに劇遊びの活動を進めていくか、毎日相談していますよ。おひなまつり会に向けた劇遊びの活動は、子どもたちの成長につながるいろいろな要素が含まれた「総合的な活動」です。この機会に、私たちがおひなまつり会にむけた活動で大切にしていることを少し書いてみます。
先ず初めにお伝えしたいのは、「年齢・発達段階に相応しい目標設定」ということです。あかぐみ(年少)では、劇遊びの前段階としての「ごっこ遊び」をしっかり楽しむことが目標です。お話の世界の設定に身も心も入り込んで、心躍らせて楽しんでくれれば十分です。きいぐみ(年中)では、いよいよ劇遊びに挑戦です。お話のストーリーと、劇の中の自分の役割をしっかり理解し、劇遊びを楽しいと感じてほしいと思います。あおぐみ(年長)には、幼稚園生活の総まとめという意味でも、(子どもたちなりに)がんばってほしいと思います。本番に至るまでの過程でも、役決めに始まり、セリフを考えたり、どうすればお客さんに伝わるか考えたり、あおぐみの劇遊びはなかなか「濃い」ですよ。
昨今、若者の人と関わる力が弱くなっているのではないか、という話をよく耳にします。実際、そんな感想を抱かせるような事件がこのごろ多いですね。それでは、人と関わる力のある子どもたちを育てるにはどうしたらいいのか、答えは簡単ではないと思いますが、大事なことは、幼稚園⇒小学校⇒中学校と進む中で、友だちや先生、いろいろな人たちと楽しい関わりをたくさん経験することに尽きるのではないかと思います。劇遊びの活動は、みんなで役割を分担し、協力して行う活動です。特に、あおぐみになると、劇の中でもいろいろな役があり、みんなで協力してひとつの劇遊びになることを劇遊びの活動を通じて、経験として理解してほしいと願っています。
八名川小学校の小山校長先生が以前に、学芸会は「能力を発揮する能力」を養う活動だ、と仰っているのを聞き、私は「なるほど」と思ったことがあります。そういう意味では、神明幼稚園でも以前から、あか・きい・あお・それぞれの段階に応じて、いろいろな場面でみんなの前で何か発表することを大事にしています。例えば、月曜日のお集まりで、時には週末の楽しかったことをみんなの前で話をしたりします。あおぐみになると、ずいぶん上手にいろいろなことをお話してくれるので、面白いですよ。あか・きいのときにはみんなの前でお話しする勇気のなかった子が、初めて自分から発表してくれたときは、その日の職員会でさっそく担任から報告があり、みんなで喜びます。おひなまつり会では、おおぜいのお客さんの前で劇遊びをします。そういうことが大好きな子もいれば、とても緊張する子もいますが、おおぜいのお客さんの前で劇遊びをする経験は、ひとりひとりの子どもたちにとってそれぞれに、大きな自信になることでしょう。大いに励まし、そして達成できた喜びをともに感じて大いに誉めてあげたいと思います。
話は変りますが、今の子ども向けのテレビ番組は、ただ相手をやっつけるだけの内容で、番組を放送することで商品を売ることが目的なのかな、としか思えないようなものも少なくない、と私は気になっているのですが、みなさんはどうですか。幼稚園では、おひなまつり会の劇遊びもそうですが、お誕生日会や、日々の絵本の読み聞かせなど、いろいろな場面で子供たちに大事な価値観を伝えるお話を提供していきたいと思っています。昨年のあおぐみは、「エルマーの冒険」の劇遊びを通じて、友情、勇気、など大切なことを感じてくれたのではないでしょうか。そんな願いもこめて、今年も劇遊びの活動をしていきますので、どうぞよろしく。さて、「物語の持つ力」というお話をしたついでに、1月の保育から、2つ紹介します。
毎月のお誕生日会では、その月のお誕生児の保護者の方もお招きして、ホールで先生たちで劇をします。(劇以外のこと・例えば保護者の方のコーラスなど・のときもありますが)「物語の持つ力」を信じて、子どもたちの心に何かしらメッセージが届くように、そんな気持ちも込めて劇をします。
1月のお誕生日会では、久々に園長主演!で「きたかぜと太陽」の劇をしました。配役は、きたかぜ⇒中根、太陽⇒園長、旅人⇒後村のトリオです。きたかぜの場面は扇風機をスイッチオン!音響は電気掃除機の音をマイクで拾いました。きたかぜにマントを吹き飛ばされまいとする後村の迫真の演技は、子どもたちにかなり受けていました。
実は、「きたかぜと太陽」のお話には、園長は思い入れがあります。亡くなった私の父、初代園長の内野淑はこのお話が大好きで、子供のころ父は私に何度も聞かせてくれました。話の最後は決まって、神明さまの神さまは天照大御神(アマテラスオオミカミ)さまと言ってお日さまの神さまなんだぞ。という締めくくりでした。冷たい北風の力よりも、温かい太陽の光によって、旅人のマントを脱がせることが出来る・・・何か大事なメッセージのあるお話だと思います。神明幼稚園では、折にふれて子どもたちに伝えたいお話です。
1月22日、深川消防署と地元の消防団が合同で、幼稚園で消防訓練を行いました。当日は消防車が3台も来て、消防団の一斉放水もあり、子どもたちにとっては大喜びの一日になったのですが、それに合わせて、あおぐみ(年長)で絵本を読みました。選んだ絵本は、もちろん「しょうぼうじどうしゃじぷた」です。
まだ読んだことのない方は、ぜひ一度読んでください。すばらしいお話です。何回読んでも感動します。いまだに園長は涙なくしては読めません。ちびっこ消防車のじぷたが、大きなのっぽ君(はしご車)やぱんぷ君(ポンプ車)に負けずに大活躍します。「ひとりひとりに個性があり、みんなに活躍するチャンスがある。」そんなメッセージを感じるお話です。子どもたちの心のどこかにこの絵本が残ってくれたら、何よりの喜びです。
10月27日(金)あおぐみに「シンチャン先生」(*)がやって来ました。今日のお題は「赤・青・黄」の3色の絵の具を使って、みんなの顔を描いてみよう!です。最初から、はだいろの絵の具を使うのではなく、顔の色ってどんな色かな?お友だちの顔をよ~く見て、3色の絵の具を混ぜて、顔の色を作って描きました。
よ~く見ると、ひとりひとり、顔の色が違うね。少しずつ絵の具を混ぜると、いろんな色が出来るよ。
シンチャン先生と絵を描くと、いつも面白いテーマがあります。
思い思いに、いろんなお顔の絵が出来上がりました。みんな興味を持ち、よく集中して、よい活動だったと思います。
幼稚園の造形活動は、作品の上手下手、よしあしを問うものではありません。絵を描いたり、何か作ったりする活動を通じ、表現する喜びや難しさを感じたり、何かを発見したり、さまざまなことを学ぶことが目的です。そのためにも「楽しく」「集中して」取り組むことができるよう、いつも工夫しています。
子どもたちの作ったものを喜んで見てあげてください。「芸術の秋」というわけではありませんが(笑)、運動会や遠足が終わった秋のこの時期、造形活動を多く取り入れています。11月の終わりには「おかいものごっこ」があります。お店やさんで売るための品物を作る、という設定で、いろいろな造形活動をします。
おかいものごっこでは、そんな子どもたちの作品を、どうか「喜んで見てほしい」と思います。よく「子どもは誉めて育てろ」といいますが、本当にそうだと思います。子どもたちの作品には、きっといろいろな思いや達成感が詰まっています。他の子と比べたり、出来栄えのよしあしを問うのは、つまらないことだと思います。それよりも、お子さんが出来たことを見つけ、お子さんの思いを感じて、「形が面白いね」「きれいな色だね」と上手に言葉をかけてあげてください。
「たてわり」という言葉になじみのない方のために、「たてわり」の説明をまずしましょう。
幼稚園は基本的に(学校もそうですが)年齢別に子どもたちを分けて学年を編成し、同年齢の集団(学級)を作って教育をします。これは言わば「よこわり」のシステムです。 それに対して、学年の異なる子どもたちをいっしょにして異年齢の集団(学級)を作る学級編成の方法を、たてわりといいます。
「たてわり」のメリットは、異年齢の子どもたちが関わることで、さまざまな「よい経験」を子どもたちができることです。
年長の子どもたちは年少の子どもたちの世話をしたり、リードする経験をすることで、自信をつけたり、年少者を慈しむ気持ちが養われたりします。逆に、年少の子どもたちは年長の子どもたちから刺激を受け、能力を伸ばすことができます。
近年、日本の幼稚園や小学校の教育では、「たてわり」が注目されています。その理由は2つあると思います。一つは、兄弟の数が減り、子どもたちの育ちの中で、異年齢の子どもと関わる機会が減っているため、「たてわり」によってそういう経験をする機会を与える必要が生じたこと。もう一つは、少子化で幼児・児童数が減ったため、学級の人数が減り、あるいは学級そのものの数が減って単学級の学校・幼稚園が増えたりしていることで、子どもたちの活動の内容が限られてしまうケースがあること。例えば、10人の単学級では、ドッジボールをするためには、異なる学年と合同で活動せざるをえない、ということです。
しかし、「たてわり」にもデメリットがあります。それは、年齢が異なる集団で活動をすると、特に年齢が小さいほど発達段階に差があるため、効率が悪いということです。例えば、幼稚園で「おりがみ」の活動をするとき、3歳と5歳では、理解度も、手先の器用さも、はさみやノリの使い方も、大きな差がありますから、いっしょに楽しく活動をするのは難しい。そういうことです。
したがって、年齢別の学級編成をベースにして、必要に応じて「たてわり」の形態を取り入れていく、というやり方が一般的です。
神明幼稚園で「たてわり」を意識するようになったのは、今から6年前のことです。この年は入園児が少なく、20人弱の学級となりました。このクラスが年少、年中と進むにつれて、人数が少ないため今まで行ってきた活動がうまくいかない。今まで経験させてあげられたことができない。という悩みを感じるようになりました。それを補うために行うようになったのが「たてわり」の活動でした。
例えば鬼ごっこなどの活動は、人数が少なかったり、メンバーが限られると発展しにくくなります。そこで、年中だけで人数が少ないならば、年長や年少といっしょにやってみよう。
そんなわけで、神明幼稚園の「たてわり」は、クラスの人数の少ないことを補う手段として始まりました。
少人数のクラスというと、行き届いた保育というイメージがありますが、必ずしもよいことばかりではありません。大人数の集団では、いろいろな子どもと交わることで切磋琢磨する関係が生じ、子どもたちがたくましくなる、というメリットが確かに有ります。そしてそれ以上に、前述したように「たてわり」には、年長児が年少児を慈しむ気持ちが育まれるなどの、さまざまな効果があることを感じました。そんなわけで、平成13、14年ごろは盛んに「たてわり」の活動を強調した時期でした。
さて、今の神明幼稚園ではたしかに、以前ほど「たてわり」と言わなくなっていると思います。それには二つの面があると思います。一つは、園児数が増えたため、以前のように人数の少ないことを補うために「たてわり」を取り入れる必要性がなくなったことです。もう一つは、(こちらがより重要なのですが)神明幼稚園の「たてわり」が進化し、以前のようにことさらに「たてわり」と言わなくても、普通の園生活の場面の中で、異年齢の子どもたちが関わる機会が増えた、ということです。
年長と年中のクラスは、2階で隣同士なので、ふだんから活動によっては合同で行ったりしています。例えば、劇遊びの活動の時期には、お互いに行き来して見せ合ったりしますし、年中の活動で初めて「おにごっこ」をするときには年長児と合同にして、見よう見まねで新しい遊びのルールを覚えていくこともします。そうしたふだんの交わりがあるので、園庭での自由な遊びの時間にも、自然に異年齢の子どもたちが関わる場面が、以前とは比較にならないくらいよく見られます。
私は、それは神明幼稚園の「たてわり」の進化した形だ、と思っています。
「子どもはほめて育てよ」とはよく聞く言葉ですが、実行するのはなかなか難しいですよね。親としては、ついついわが子に対しては、口うるさくなってしまいます。しかし、幼稚園であおぐみとあかぐみを比べると、その違いにびっくりしますよね。子どもたちは、幼稚園の3年間で大きく成長しているということです。子どもたちの様子を丁寧に見ていくと、実にいろいろなことができるようになっています。子どもたちが「できるようになったこと」にしっかり気づいて、ほめてあげたいですね。成長を認められることで、子どもたちは自信をもち、さらにいろいろなことにチャレンジする気持ちになっていくのです。
幼稚園での毎日は、子どもたちの成長に気づく、うれしい場面がたくさんあります。神明幼稚園では、そんな喜びを保護者の方々にもお伝えしようと、日常の「小さな幸せ」をデジカメの写真でこまめに掲示しています。今回は、ある日のきいぐみのひとこまを紹介しましょう。
きいぐみでは運動会の後から「リーダーさんの活動」が始まりました。毎日の生活の中で、活動の準備をしたり、いろいろなお仕事をしてくれます。朝のお集まりの時には、みんなの前で起立して今日のお休みを報告します。お帰りの会の時には、明日のリーダーさんの名前を言って引き継ぎをします。最初は、みんなの前で発表するのが恥ずかしくてうまく言えない子もいますが、励まされて上手に言えたときの表情は、誇らしそうでなんとも言えずかわいらしいです。
子どもたちには、それぞれいろいろな個性があります。機会があるごとに申し上げていることですが、私は常々、子どもたちにとって幼稚園で一番大切な経験は、「いろいろな子どもたちがいることを知ること」、そして「いろいろな子どもたちがいる中で自分の居場所があることを知ること」だと思っています
幼稚園には、活発な子もいれば、おとなしい子もいます。お母さんたちの悩みを聞いていると、そのほとんどは単純に分類してしまえば、次の2つに大別できるような気がします。活発な子の親は、集団生活のルールを乱したり、他の子に迷惑をかけていないか、心配しています。おとなしい子の親は、もっと堂々と自分の気持ちを言えるようになってほしいと思っています。
幼稚園で私たちは、そんな子どもたちの個性を尊重しながら、集団生活を進めていきたいと毎日思っています。活発な子は、その元気なところは伸ばしながら、自分の気持ちで突っ走っているときには、周囲の気持ちや状況に気づくように言葉かけをし、時には厳しく注意します。逆に、おとなしい子には、必要なときにはしっかりと自分の気持ちを言えるように励まします。そして、常に適切な働きかけをできるよう、日々教職員同士で話し合っています。
子どもたちも幼稚園の3年間で大きく成長しますが、保護者の皆さんも同じように大きく成長しますし、また成長しなくてはうそだと思います(笑)。それでは、親の成長とは何かというと、私は、子どもたちと同じように、親も「いろいろな子どもたちがいること知る」ことではないかと思っています。男の子もいれば、女の子もいる。活発な子もいれば、おとなしい子もいる。身体の大きな子もいれば、小さな子もいる。お調子者もいれば、慎重な子もいる。さまざまな個性があることを、実は子どもたちは、きいぐみの途中くらいには十分に認識し、その中で友だち関係を育み、上手にやっていくことを学んでいるように思います。
3学期は、最後に「おひなまつり会」があります。保護者の方々にとっては、自分の子どもの成長を知る機会であると同時に、それ以上に、クラスの中にすばらしい個性があることを知る機会です。おひなまつり会の劇遊びは、ともすると舞台の中央で上手にせりふを言う子に目を奪われがちですが、よく見ていると、舞台の上ではそれぞれが一生懸命に個性を発揮しています。人前でせりふを言うなんて考えられなかった子が、小さな声で少し聞き取りづらかったけれど、立派にせりふが言えたね。そんな場面こそ見所なんです。特に、あおぐみの劇遊びの発表の後には、お母さん同士、○○ちゃん、立派になったね。××ちゃん、楽しそうに踊ってたね。そんな話が弾むおひなまつり会であってほしい。それこそが、子どもたちと親とともどもに、よい3年間を送ってきた証だからです。
今回のお題は「見立てる力」。園生活のようすの「おかいものごっこ」の話の続きです。
「おかいものごっこ」の頁でお話したように、幼児期の子どもたちは「見立てる力」という、素敵な素敵な魔法のパワーをもっています。だから、子どもたちは、砂場で作ったケーキや、落ち葉のアクセサリーで、目を輝かせて「おかいものごっこ」の活動を楽しむことが出来るのです。私たちは、幼稚園が子どもたちが自らの豊かな想像力を思う存分働かせて、思い切り遊ぶことの出来る場所であるように、環境を整え、見守っていきたいと思っています。ところが、残念なことに私たちが住む現代の日本の社会は、そんな素晴らしい子どもたちの魔法のパワーを、育てるどころか、逆にスポイルしてしまう環境にあふれています。
おもちゃを例にとって話をしましょう。
私たちが子どものころ、今に比べればおもちゃは少なく、そのかわりに缶蹴りや鬼ごっこなどの遊びをした記憶があります。私たちの両親の時代には、もっとおもちゃは少なく、棒切れや小石、落ち葉など、身近にあるいろいろなものを、おもちゃに見立てて遊んだんだろうと思います。
それに比べると、今の子どもたちは、あふれるばかりのおもちゃに囲まれて生活している子も少なくないようです。その他に、テレビゲームやカードゲーム、あるいはビデオなどの視聴覚的なものも本当に豊富です。どちらが幸せなことなのでしょうか。難しいところだと思います。
昔はおもちゃがなければないなりに、棒切れや小石など手に入るものを想像力でおもちゃに見立てて遊びました。そのことによって、子どもたちの想像力は刺激され、工夫する力が育てられたということが、少なくとも言えると思います。
神明幼稚園の先生たちは、幼稚園が子どもたちが目を輝かせて遊びこむ場所であるように、お部屋や園庭に用意するおもちゃの量や質に配慮しています。入園当初の子どもたちにとっては、幼稚園にあるおもちゃは、幼稚園という未知で不安な場所になじんでいくための、貴重な手がかりになります。したがって、親しみやすいぬいぐるみや、わかりやすいおもちゃを必要な量だけ用意しておくことは有効です。
しかし、入園当初の一時期を過ぎて、幼稚園が安心して過せる場所だと知ったならば、次第に視野を広げて、園庭のいろいろなもの、そしてたくさんのお友だちに目を向けてほしいと思います。おもちゃがなくても、遊ぶ場所があってお友だちがいれば、いくらでも楽しいことを見つけ出せる。作り出せる。幼稚園の3年間で、その確信だけはすべての子どもたちに持ってほしいのです。
「見立てる力」に話を戻しましょう。私は、幼稚園にあるおもちゃは、なるべく「操作性の高い」ものであるべきだと考えています。操作性が高い、というのは、子どもたちが自分たちで手を加える余地を多く残している、という意味です。(この言葉は、以前にこのコラムの「作るということ」で、幼稚園に相応しい造形素材について書いたときにも使いました。)よく出来たロボットのおもちゃは、よく出来ていればいるほど、ロボットでしかありません。けれども、木切れや石ころは、想像力ひとつで、ロボットにもロケットにもなるのです。おうちでは、たくさんのおもちゃに囲まれて生活している子どもたち。幼稚園では、「見立てる力」を大いに発揮して、想像力を駆使して、創造的に遊んでほしいと思います。
最後に、おうちの方にお願いです。おもちゃの与え方には配慮しましょう。これは、豊かな現代日本ならではの、ぜいたくな悩みだと思いますが、だいじなことです。満腹では、どんなご馳走も美味しくありません。それと同じで、子どもたちが本来持っている好奇心や欲望、想像力を刺激する環境を整えることは、親の責務だと思います。
ついでに、テレビ、ビデオについても一言ふれておきたいと思います。当たり前のことですが、やわらかく未完成な子どもたちの頭に、テレビ、ビデオの強い刺激を無制限に流し込むことは、危険なことだと思います。もちろん、テレビやビデオの情報をシャットアウトすることなど、現代社会ではできるはずもありません。しかし、テレビやビデオには一定の制限を加え、見立てる力を使って、現実のものにふれて遊ぶ環境を用意してあげることも、あわせて親の責務だと思います。
もうひとつ付け加えると、園長としてえらそうなことを書き連ねていますが、私自身も親としては悩ましい思いをしています。山の中に引っ越して家族で原始生活を始めれば、子どもの見立てる力は大いに伸びるでしょうが(笑)、そういうわけにもいきません。親として、何が正しいのか思い悩みながらも、上手に折り合いをつけて、工夫して生活していきましょう。
私は、小さいころ、絵本の大好きな子どもでした。大人になってずっと忘れていましたが、幼稚園の園長になってから、幼稚園にある絵本を見て「あっ!これ読んだことある!」と、小さいころの記憶がパッとよみがえって来ました。そういう楽しい記憶がある、ということは、とても幸せなことだと思います。
神明幼稚園には、そんな素敵な絵本がたくさんあります。そんな中から、お勧めの絵本をいくつかご紹介しましょう。
--文/なかがわりえこ、絵/おおむらゆりこ
ゆうじはある日、のはらできつねから、そらいろのたねをもらいました。そのたねをにわのまんなかにうめました。…すると、あ~ら不思議…。
--作/渡辺茂男、絵/山本忠敬
これは、園長のイチオシのおすすめ絵本!ちびっこの「じどうしゃ・じぷた」の大活躍は、涙なくしては読めません。私はいまだに、読むたびに涙が出ます。(^^;)
--さく・え/なかや みわ
大人気の「そらまめくんシリーズ」の第1弾。そらまめくんのユーモラスな表情は必見です。
--作/川端誠
これまた大人気の、「風来坊シリーズ」の第2作です。ぶらりとある村に現れた風来坊。今回は、いくさ好きで村の人たちを困らせている殿様を、見事にこらしめます。
神明幼稚園では、毎日のお帰りの会などで、時間があれば先生が、なるべく絵本を読むようにしています。ときには園長が、お部屋に出向いて、とっておきの絵本を読みます。 子どもたちが目を輝かせて、空想の翼を広げて見入ってくれるのが、何よりの喜びです。
幼稚園で子どもたちは、実にいろいろなものを作ります。いわゆる「製作」とよばれる活動です。段ボールに色を塗って車や船を作ったり、木工遊びをしたり、画用紙に色紙を切り貼りしたり・・・。
どうして幼稚園では何かを作る活動がこんなにいっぱいあるんだろう? 幼稚園で何かを作るという行為は、子どもたちにとってどんな意味があるんだろう?って思ったことはありませんか。
私は、幼稚園で子どもたちが何かを『作る』というのは、「子どもたちが自分自身を『何かを作り出すことができる存在』だと確認すること」だと考えています。だから、幼稚園の製作では、上手とか、出来映えとか、そんなことはまったくどうでもいいことで、子どもたちが何を作ったかではなく、何かを作り出したという経験それ自体に意味があると思っています。
そういう意味で「粘土」は、幼児期の子どもたちにとって、とても望ましい造形素材だといえます。粘土は、子どもたちの力で自由に形を変えることができます。こういう粘土のような素材を「操作性が高い」といいます。わかりやすく言えば「あつかいやすい」ということです。この「あつかいやすい」ということが、とてもたいせつです。
子どもたちは粘土をこねて、まんまるのお団子を作り、細長~い蛇を作り、平べったいおせんべいを作ります。子どもたちは十分に有能感(自分自身を有能な存在だと肯定的に認識すること)を味わい、自信をつけていきます。そしてそれが「育つ」ということだと思います。
私たちは日ごろ、子どもたちと接するときに、意識しないでいろいろな言葉を使っています。皆さんも経験があると思いますが、子どもが言葉を覚えだすころには、知らず知らずに使っている親の口癖をオウムがえしに真似されて、思わずみんなで大笑いしたり、ときには冷や汗をかいたりしましたよね。
子どもたちは、周囲の大人たちのたくさんの言葉を日々吸収しながら育っていきます。これを、学校や幼稚園での「意識的な教育」に対して、無意識的な教育」「といいます。子どもたちの人格形成の上では、この「無意識的な教育」が意識的な教育よりも、はるかに大きな影響をもっていると言われています。あまりまじめに考えるぎると、子どもたちの前でうっかり何も話せなくなってしましますが(笑)日ごろ何の気なしに使っている「言葉」を、ときに見直してみるのも有意義なことではないでしょうか。
そこで、記念すべき園長のコラム第1回!のお題は、「キレイってなんだろ?キタナイってなんだろ?」です。「キレイ」「キタナイ」どちらの言葉も、私たちが子どもたちの前で、日々それこそ何十回、何百回も使っている言葉ですが、とても大切な言葉だと思います。と言うのは、周囲の大人たちがどんなときに「キレイだね」と言い、とんなときに「キタナイよ」と言うのか、子どもたちがそれぞれの価値観を形成していく上で、きっと大きな影響があると思うからです。
幼稚園の花壇には、春になるとチューリップがいっぱい咲きます。
あか、きいろ、しろ、むらさき・・・とても「キレイ」です。
空を見上げると、境内の銀杏の葉が緑色です。
ちょうど入園式の頃、枝という枝からいっせいに新緑の葉が芽吹いてくるときが、一番「キレイ」だと思います。
秋には、銀杏の葉がいっせいに黄色く色づきます。
秋晴れの青い空に銀杏の黄色がよく合います。園庭は、落ち葉で黄色いじゅうたんを敷いたようです。
子どもたちを取り巻く身近な世界に、たくさんの「キレイ」があります。ひとつひとつの小さな「キレイ」を見つけて、「キレイだね」と言葉にしていきたいものですね。
さて、お次はこれ
子どもたちは、それぞれ自慢のどろだんごを「きれいでしょ」と見せに来てくれます。みんなじょうずに「キレイ」なまん丸の泥だんごを作ります。根気よく磨き上げると、ぴかぴかになって「キレイ」です。
今度は、どろだんごの製作風景。
お砂場で、なにやら一生懸命こねこねしているあかぐみさんです。
手はどろだらけ。さあ、おへやに帰る前に、手を洗いましょう。 こんなとき、私たちはよく、無意識に「キタナイ」から手を洗ってらっしゃい、なんて言ってしまいます。でも、どろって「キタナイ」のかな。お砂場は「キタナイ」ってことかな。「キタナイ」からじゃなくて、手がどろんこだから手を洗ってこようね、と声をかけたいな、と私たちは思います。なんでもないことみたいだけれど、大事なことだと思います。